白田弘行wiki風プロフィール!あさま山荘事件の鉄球作戦の操縦士とは?

白田弘行のブログのアイキャッチ画像

あさま山荘事件の
“鉄球作戦”で注目された白田弘行さん。

クレーン車を操縦士
事件の解決に貢献したことで
知られていますよね。

名前は聞いたことあるけど
実際どんな人物なのか?

今回は白田弘行さんの
あまり知られていない
プロフィールや
人物像を中心に解説していきます。

読み終わる頃には
白田弘行さんがなぜ
あの事件の現場にいた理由も
理解できるかもしれません。

目次

白田弘行のwiki風プロフィール

白田弘行あさま山荘事件インタビュー

出典元:FNNプライムオンライン

・名前:白田弘行(しろた ひろゆき)
・生年月日:1937年(昭和12年)
・出身地:長野県長野市安茂里
・職業:クレーン操縦士
・家族構成:父・母・弟・妹の3人兄妹
・結婚:21歳で結婚、事件当時も既婚
・勤務先:地元の建設会社白田組で勤務
・居住地:事件当時も長野市安茂里で生活

白田さんは、
長野市安茂里に生まれ育った地元の職人です。

家業である建設会社「白田組」で働きながら、
地域の現場を支えてきました。

事件の際には弟の五郎さんと共に出動し、
警察からの依頼で
鉄球クレーンの操縦を担当しました。

民間人として国家的事件の現場に
立ち会った彼の冷静さと責任感は、
今も語り継がれています。

白田弘行とあさま山荘事件|鉄球作戦を支えた男の決断

山奥の山荘

1972年2月に長野県軽井沢町の山中で、
連合赤軍による
人質立てこもり事件が発生しました。

警察の包囲は10日間に及び、
極寒と緊張の中で事態は膠着していました。

この時、突破口として
導入されたのが“鉄球作戦”です。

巨大な鉄球を吊るしたクレーンで
山荘の壁を破壊し、突入のきっかけを
作るという前代未聞の方法でした。

その操縦を任されたのが、
民間のクレーン操縦士・白田弘行さんでした。

白田弘行が出動した理由

事件解決のため警察は、
県内の建設会社に協力を求めました。

白田組にも依頼が届き、
現場の危険性を説明された上で
「手伝ってほしい」と頼まれたそうです。

弟の白田五郎さんと共に、
白田弘行さんは迷うことなく
現場へ向かったと言われています。

「断れなかった」と
後に言われるその一言には、
職人としての責任感が溢れています。

現場では銃声が響き、
緊張感に包まれていました。

警察から「命の保証はできない」と
告げられていたようですが、
白田さんはヘルメットをかぶり、
冷静に操作席に座ったといいます。

その姿勢には、恐れよりも
事件を解決したいという意志を感じますね。

白田弘行が操縦した鉄球クレーンとは?

白田弘行あさま山荘鉄球クレーンイメージ

白田弘行さんが操縦したのは、
日立製の35トン級クレーン。

吊り下げた鉄球は約1トンあり、
もともとは建物の解体に使うものでした。

現場は2月の軽井沢で
気温は氷点下、地面は雪と氷で滑り、
足場も不安定だったそうです。

それでも白田弘行さんは、
クレーンの脚を固定し、
慎重に鉄球を振りました。

風が吹くたびに鉄球が揺れ、
操作を誤れば隊員にも危険が及ぶ中、
白田さんは揺れを読みながら、
壁を少しずつ壊していきました。

鉄球が建物を打つたび、雪煙が上がり、
静かな緊張が走ったといいます。

外壁が崩れ、突入の合図がかかったとき、
白田さんはただレバーを戻し息をつきました。
その瞬間、現場には歓声ではなく、
深い静けさが広がっていたそうです。

白田弘行が語らなかった50年間の真実

古い時計と懐中時計

事件のあと、
白田弘行さんは多くを語りませんでした。

「自分はただの作業員」とだけ話し、
取材にもほとんど応じなかったそうです。

それでも後年になり、
「鉄球作戦は失敗だった」と口にしました。

鉄球を使う判断が遅れたことで、
警察官が犠牲になった。

そのことを、ずっと悔やんでいたといいます。

感謝状も受け取りましたが、

家族が狙われたら困る

と事務所の隅にしまったまま。

誇りよりも家族を守ることを選びました。

年月が経っても現場の記憶は消えず、
「テレビで映像が流れるとつらい」
と話していたそうです。

晩年には
「自分にしかできないことがあった」と語り、
静かに、穏やかに、自分の役割を
受け止めていたようでした。

白田弘行のその後…現在と語り継がれる教訓

砂時計とノート

事件のあと、白田弘行さんは
再び現場の仕事に戻りました。

報道に出ることもなく、
地元の建設業を静かに続けていたそうです。

晩年に入ってようやく、
取材で事件のことを語るようになりました。

それでも自分を特別視することはなく、
「誰かがやらなきゃいけなかった」
とだけ話しています。

今も地元では、白田さんを
「黙って動く人」として
覚えている人が多いそうです。

派手な言葉よりも、
行動で示す職人の生き方。

その姿勢こそ、事件を越えて
語り継がれる一番の教訓なのかもしれません。

事件の実行犯、
吉野雅邦さんについて書いた記事があります。

家族や当時の生活など、
もうひとつの視点から事件を見ることで
あさま山荘事件をより知ることができます。

白田弘行wiki風プロフィール!あさま山荘事件の鉄球作戦の操縦士とは?まとめ

エピソードイメージ画像

白田弘行さんは、1972年の
あさま山荘事件で“鉄球作戦”を
支えた民間のクレーン操縦士でした。

警察の要請を受け、
極寒の軽井沢で1トンの鉄球を操り、
突入のきっかけを作りました。

彼は特別な肩書きを持つ人ではなく、
地元で働く職人だったということ。

それでも
「頼まれたからやる」という
覚悟で現場に立ち、
命を懸けて任務を果たしたのです。

事件後も派手に語ることはなく、
「自分はただの作業員」と言い続けていました。

白田さんの行動は、
名誉よりも事件の解決を優先した
“静かな勇気”の象徴。

あの鉄球を動かしたのは、
国家ではなく、一人の民間人の決断でした。

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