吉野雅邦の家族構成とは?妻や子供はあさま山荘事件当時にいたのか徹底調査!

吉野雅邦ブログアイキャッチ画像

あさま山荘事件の中心人物の一人、
吉野雅邦さん。

50年以上経った今でも
度々メディアで報じられるほど
大きな事件の1つです。

吉野雅邦さんが実行犯として
名前をしられている一方で
吉野雅邦さんについて
あまり詳しく報道されていません。

そこで今回は、
吉野雅邦の家族構成から
妻や子供はいたのか?

徹底的に調査していきます。

家族構成を知ることで
改めて事件のきっかけや
その活動の動機を知ることが
できるかもしれません。

目次

吉野雅邦さんの父親

夕焼け父親の影

・氏名:吉野良一(よしのりょういち)
・学歴:東京帝国大学法学部
(現在:東京大学法学部)
・職歴:三菱地所に入社のちに重役へ
・性格:理知的で冷静
 規律を重んじる一方子ども思い


吉野良一さんは
東京帝国大学法学部を卒業し
同級生には元首相の
中曽根康弘さんがいたと言われています。

中曽根康弘さんが
1918年(大正7年)生まれなので
大学の同級生であると
1918年前後生まれの可能性が高そうです。

吉野雅邦さんが
1948年生まれなので30歳の頃の
子供と考えるとごく自然な数字に感じます。

息子の過激化と父親の葛藤

1960年代後半、吉野雅邦さんが
学生運動にのめり込みはじめたころ、
父親は息子の変化に深い
戸惑いを抱いていたといいます。

当時の家庭は、社会的にも
“模範的な家”と見られており、
その中で息子が過激派運動に加わることは、
父にとって大きな衝撃でした。

それでも、父親は息子を
見放すことはありませんでした。

あさま山荘事件後も
面会や手紙を通じて関わり続け、
吉野さんが無期懲役となってからも
支援を続けたと伝えられています。

吉野雅邦さんの母親

昭和の和室に朝ごはん

・氏名:吉野淑子(よしのよしこ)
・生年:1921年(大正10年)頃
・性格:穏やかで芯のある性格
 息子思いと言われている。

あさま山荘事件当時の情報で
1972年時に母・淑子(51)
と公開されています。

この情報をもとに生年を推測すると
1921年の大正10年生まれとなります。

夫が仕事で多忙だったため、
淑子さんは家庭を明るくしっかりと支え、
息子の心に寄り添う存在だったようです。

勉強よりも
「人としての優しさと誠実さ」
を重んじていた言われています。

あさま山荘事件での呼びかけと母の信念

1972年2月、あさま山荘事件で
吉野さんが籠城した際、
母・淑子さんは現場へ駆けつけ、
マイクで息子に呼びかけました。

「まあちゃん、早く出てきてちょうだい」

この言葉は事件を象徴する
母の声として記録に残っています。

しかし吉野さんは応えられず、
混乱の中で母の乗る装甲車に
発砲したといわれています。

事件後も淑子さんは息子を見捨てず、
面会や手紙を通して支え続けました。

「どんな罪を犯しても、あなたは私の子ども」

その信念を貫き、社会の非難にも
屈することはありませんでした。

母・淑子さんの姿は、
悲劇の中にあっても
“母の無条件の愛”を体現した
存在だったのではないでしょうか。

吉野雅邦の兄弟について

夕日に映る男兄弟

吉野雅邦さんには、
1歳年上の兄が1人いました。

兄は生まれつき重い知的障害を抱えており、
若い頃から東京都内の知的障害者施設で
生活していたと伝えられています。

家庭では兄の存在が大きく、
両親は兄の世話と将来への不安を
抱えながら生活を送っていました。

そのため、吉野さんは幼い頃から
「弟としての責任感」と
「複雑な感情」を抱いていたようです。

心に残っている「兄」という存在

兄の存在は、吉野さんにとって
「守りたい存在」であると同時に、
「どうすることもできない現実」
の象徴でもあったようです。

事件後に書かれた獄中手紙の中で、
吉野雅邦さんは家族のことを振り返り、
こう記しています。

兄の存在を思うとき、
私は“生きるとは何か”
を問われている気がします。

兄を通じて感じた「命の重み」や
「生きる意味」は、吉野さんが後に語る
“省察”の根底に流れているテーマでもあります。

吉野雅邦には妻と子供はいたのか?

台所に立つ奥さん

吉野雅邦さんには、
金子みちよさんという内縁の妻がいました。

二人は横浜国立大学の混声合唱団で出会い、
学生運動を通じて親しくなりました。

同い年の彼女は、
明るく活発でボーイッシュな
性格だったといわれています。

最初のデートでは、短く切った髪に
レモンイエローのノースリーブの
ワンピースを着て周囲にも印象的な
カップルとして知られていたという話があります。

二人の子供について

1968年頃から交際を始めた二人は、
大学卒業を前に事実婚の形で同棲を始めます。

しかし、学生運動が過激化し、
革命左派から連合赤軍へと活動が移る中で、
二人の関係は次第に苛酷な環境に
巻き込まれていきました。

1971年に金子みちよさんは妊娠します。

当初は出産の意志を示し、
吉野雅邦さんも父親になる覚悟を
語っていたと伝えられています。

しかし、1972年2月の山岳ベース事件で、
彼女は「総括」と称される暴力を受け、
妊娠8か月の状態で死亡しました。

享年は23歳。胎児は女の子で、
母体とともに命を落としました。

金子みちよさんと子供への思い

ペンと便箋

吉野さんは逮捕後、
妻と胎児の遺体写真を見せられた際、

「この子は死んでいない。どこかで生きている」

と語ったと伝えられています。

のちに獄中の手紙で、

「私は彼女を犠牲にしながら、
自己の生命を存続させたと言わざるを得ません」

と記し、深い悔恨を滲ませていたようです。

以降も手紙の中で、金子みちよさんと
胎児の冥福を祈り続けています。

吉野さんにとって彼女は、
革命ではなく人生そのものを
共にした最愛の存在でした。

吉野雅邦のプロフィールと現在

吉野雅邦あさま山荘事件当時

出典元:デイリー新潮

・氏名:吉野雅邦(よしのまさくに)
・生年月日:1948年3月27日生まれ
 (東京都杉並区出身)
・学歴:都立日比谷高校
 → 横浜国立大学経済学部(中退)
・所属:中核派 → 革命左派
  → 連合赤軍

現在の様子

・2025年現在も服役中。
・高齢受刑者介助や陶芸指導補助に従事
・獄中で『省察―連合赤軍私史』を執筆
・面会した古畑恒雄弁護士に
「被害者と遺族のために生きて償いたい」と語る。

あさま山荘事件の解決に
「鉄球作戦」という作戦が
用いられました。

文字通りクレーン車で
鉄球を使い山荘を壊し突入するという
作戦だったのですが
この作戦の操縦士は民間の建設業の方です。

鉄球作戦の操縦士の方についても
記事を書いているので
そちらをあわせて見てもらうと
よりあさま山荘事件への理解が
深まると思います

吉野雅邦の家族構成とは?妻や子供はあさま山荘事件当時にいたのか徹底調査!まとめ

山奥の山荘

吉野雅邦さんについて
ここまで調査してきました。

吉野雅邦さんは父親、母親、兄の
4人家族で育ったことがわかりました。

またあさま山荘事件前に
内縁の妻金子みちよさんが妊娠していて
あさま山荘事件前に胎児と共に
亡くなっていたことから
事件当時には妻と子供はいなかったようです。

吉野雅邦さんの活動や事件と
家族関係や環境が関係あるのか
ということについては
正直、本人しかわかりません。

ただ本人の償いたいという言葉から
反省や後悔を感じます。

きっとこのようなことが
再び起こらないことを
願っているのではないでしょうか。

スポンサーリンク

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次