橋幸夫の年収は1.9億円!資産や豪邸を全盛期から晩年まで徹底解説!

橋幸夫の黄色いステージ衣装

昭和歌謡の“御三家”として
一時代を築いた歌手の橋幸夫さん。

その存在は多くの人にとって
青春の象徴でもありました。

歌手として数々のヒット曲を生み、
俳優としても活躍していたことからも

全盛期はどのぐらいの収入があったのか?

と度々話題になることがあります。

そこで今回は昭和の大スター、
橋幸夫さんの年収の謎に迫りつつ
資産や住まいはどおだったのか
調査していきたいと思います。

年収という話題ではありますが
昭和という時代や橋幸夫さんの魅力を
一緒に振り返ってもらえたら嬉しいです。

目次

橋幸夫のプロフィールと経歴

パソコンと経歴書

・名前:橋 幸夫(はしゆきお)
・本名:橋 幸男
・生年月日:1943年5月3日
・出身地:東京府東京市荒川区
・学歴:城西大学附属城西高等学校 卒業
・職業:俳優・ミュージシャン
・デビュー:1960年「潮来笠」で
レコードデビュー
「受賞歴」
・1960年「潮来笠」で
 第2回日本レコード大賞 新人賞
・1962年「いつでも夢を」で
 第4回日本レコード大賞 大賞
・1966年「霧氷」で
 第8回日本レコード大賞 大賞
・代表曲:「潮来笠」「いつでも夢を」
 「恋をするなら」「霧氷」など
・称号:”御三家”の一角
 (舟木一夫・西郷輝彦と並ぶ)

橋幸夫さんは1943年に現在の
東京都荒川区で生まれました。

学歴は城西大学附属城西高等学校を卒業。

学生時代は”悪童”と呼ばれるほど
やんちゃで、ボクシングに熱中し、
プロテストを勧められるほどの
実力を持っていました。

ところが、心配した母が
遠藤実さんの歌謡教室に通わせたことが、
歌の道へ進むきっかけ
となります。

1960年「潮来笠」でデビューすると、
わずか17歳で日本レコード大賞の
新人賞を受賞。

爽やかな歌声と笑顔で一躍人気を集め、
昭和歌謡に新しいスターが誕生しました。

その後も「いつでも夢を」「霧氷」など
数々のヒット曲を生み出し、
新人賞と大賞を
両方獲得した数少ない存在に。

舟木一夫さん、西郷輝彦さんと並び、
“御三家”の一人として
昭和の音楽の黄金期を支えました。

さらに俳優としても映画やドラマに出演し、
歌手だけでなく多彩な活躍を見せ、
昭和の大衆文化を彩った
大スターとして長く愛され続けました。

橋幸夫の全盛期の年収

橋幸夫恋をするなら

1960年代は昭和歌謡が
最も花開いた時代だったと言えます。

その時代に大人気の歌手だった
橋幸夫さんはどのぐらいの収入が
あったのでしょうか?

当時の高額納税者番付には、
このように記載されていたという
情報があります。

・1962年の申告所得:約2,117万円
・1966年の申告所得:約4,099万円

大人気歌手で4,099万円と聞くと
少し物足りなく感じるかもしれません。

しかしそれは1960年代の金額で
4,099万円を現在の価値に
計算すると約1.9億円となります。

※物価換算
日本銀行CPI約4.6倍に基づく計算

ちなみに1966年ごろの
大卒の初任給は
2万5000円
ほどと言われています。

1966年橋幸夫さんは
23歳〜24歳の年になるので
大卒の人が初任給を受け取る年と
ほぼ変わりません。

これを見ると当時の
4,099万円がいかにすごいことか
お分かり頂けたと思います。

参考に1960年代の
モノの価格を紹介します。

・米10kg:870〜1,520円
・食パン:30〜50円
・ラーメン(お店)1杯:40〜150円
・コーヒー(お店)1杯:60〜100円
・タバコ1箱:40〜50円

橋幸夫の資産や豪邸

金のインゴット

全盛期の年収は
かなりのインパクトでしたが
資産の方はどれほどなのでしょうか?

橋幸夫の資産は?

長年にわたって活躍していた
橋幸夫さんですが
正確な資産は公表されていません。

ただ過去の報道では
2017年に前妻と離婚した際に
資産価値が10億円と言われるビルを
譲渡したと言われています。

2017年の時点では
不動産10億円+@はあったと
思われます。

また、同じく昭和を代表する
大スター美空ひばりさんの場合は
1989年にお亡くなりになった時に
遺産総額が10億3000万円と
一部では言われております。

そのことを考えると
やはり離婚する前には10億円以上の
資産を保有していたと
考えるのが妥当です。

橋幸夫の豪邸は?

橋幸夫熱海のリゾートマンション

先ほども少し触れたように
橋幸夫さんの豪邸と呼ばれる住まいは
渋谷区一等地のビルになります。

こちらの豪邸は
歌手の橋幸夫さんらしく
スタジオが併設されていたと
言われています。

ただこちらの住まいは
2017年に前妻へ
譲渡してしまっているので
現在は橋幸夫さんの家ではありません。

一部の情報によると
静岡県熱海市のリゾートマンション
「熱海パサニアクラブ」で
晩年は過ごしていたと言われています。

こちらの熱海パサニアクラブ
2025年売りに出ている価格が
1800万円〜2200万円ほどで
中古で販売されています。

豪邸を譲渡したあとは
比較的一般人でも住めそうな
リーズナブル
ところで
生活をしていたようです。

橋幸夫の晩年の活動

橋幸夫プロフィール画像

橋幸夫さんは2023年5月に
歌手としての活動を引退しています。

テレビ番組など以外の活動は
コンサートやディナーショーがメインで
1年半で160ヶ所をまわったり
年間100本以上コンサート等を
行っていたそうです。

全盛期よりは仕事が減っても
晩年もある程度稼いでいたと
想像することができます。

また2025年5月に
アルツハイマー型認知症と
診断された時の話で

「“おれ、病院に入りたくない。お前(妻)を食べさせなきゃいけない。そのためにには働かなきゃいけないだろ。働かないと結婚したお前をたべさせることができない”と…。奥様は涙がでたとおしゃっていました」

引用:スポニチ

このように橋幸夫さんから
言葉が出ているという事は
晩年は働きながら
貯蓄を崩して生活していたとも
考えることができます。

橋幸夫の年収は1.9億円!資産や豪邸を全盛期から晩年まで徹底解説!まとめ

昭和の風景

橋幸夫さんをここまで
ご覧になっていかがでしたか?

1960年代の
歌謡曲の全盛期というのは
橋幸夫さんなどスターによって
花ひらいた時代だと感じました。

物価が今より安い時代に
決して安くないレコード買ったり
コンサートなどにファンが行くことは…

お金で買えないものを橋幸夫さんが
提供していたからではないでしょうか。

また晩年に、
「奥様を食べさせないといけない」
という言葉にとても感動しました。

2025年9型4日に
亡くなってしまった橋幸夫さん。

今後も橋幸夫の歌やメッセージは
多くの人に語り継がれていくことでしょう。

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